『ロコ旅』感想のメモ書き
タイトル通り、ロコが旅をする話。ロコは旅をする中で様々な人間だったり非人間だったりに出会い、別れていく。
物語は、ロコが故郷の街を出るところから始まる。街がゴーストタウンになっしてまったわけは、作中で具体的に示されてはいないが、どうだろう。過去に災害が起こったのではないかと推測されるが、物語上さほど重要ではないのかもしれない。
人が街から去っていく中、ロコは街に残ることにこだわっていた。
人のない街は街じゃない。街とは大切な人の事である。人が出ていくにつれて、街の時が止まっていく。印象的なことばたちが人と街との根源的な関わりを示唆する。
靴屋のプレゼントを受けて、ロコはようやく心変わりをして、街を離れて旅に出ることを決心する。
物語全編を通して、ロコはとんでもない世間知らずである。
海を知らず、魚を知らず、船を知らず、浮力を知らない。それは彼女が時間の止まった街で過ごしていたからで、そこから外に出ようとしなかったからだ。ロコの世界は人の少ない街で帰結し、社会との繋がりを何ら持っていなかった。もちろん、友人のひとりとして。
かつてグリマスには『夢いっぱい! メルヘンアイドル物語』というイベントがあった。
その中でロコは『ラプンツェル』をモチーフとした演劇を行うのだが、その役となるロコンツェルは、部屋に引きこもり、下界との接触を極力絶ちながら黙々とジオラマを製作している、ただの役とは思えないほどにロコに接続した少女だった。
イベント開催期間が2014年の5月で、この『ロコ旅』が投稿されたのが2015年4月。時系列的にはイベントの方が前だから、その辺をなぞらえている可能性が高い。つまり、旅人がロコなのはそのあたりが理由なのかなーと思う。
ロコが旅に出て最初に会うのは伊織で、最初の友達になってくれる。そして伊織との関わりは、ロコが旅の目的を決めるきっかけにもなる。伊織の誘いをロコは断って、旅を続けることに決める。どうでもいい話だが、海を目指す旅というと映画「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」を思い出す。本当にどうでもいい話。
あずささんと宿を経てロコは旅の何たるかを知って、旅人としての一歩目を踏み出す。「ひとりになってはじめて、ひとりじゃないことを知った」という旨のセリフが愛おしい。作者が出す『宿』がどのようなことばを有しているのか、一読者としては想像することしかできないが、このロコ旅においての宿は、どこか儀式的な印象を持っていた。言い換えれば、何かしらの役割を、正しく果たした。
話の大筋には関係ないかもしれないが、『宿』という文字、言葉の響きを考えてみる。宿は人が一時を過ごす建物であり、派生して、何かが物事の内部に存在する様子でもある。ロコが旅への思いを「宿す」ことができたのは、あの宿と謎多き主人のおかげでもある。
また、『宿』は今と過去とを繋ぐ意味もあるように思う。例えば「宿命」とか「宿題」とか「宿雨」とか、宿は現在以前から連なってきた時間たちを抱えている。この点においても、『旅』との関連性みたいなものが見えてきそうだ。
結局何が言いたいかというと、作者の描く『宿』にはそのくらいの深みというか、奥行きがあるよねっていう話。
閑話にて、ロコはエミリーと出会う。エミリーの正体はよくわからないけれど、どうにも非人間感がある。次第に記憶を失くしていく、だから急がなければならないのだろうか。
そして、ようやく第1話らしきものに到達する。ジュリアは街のことを知っている様子だった。はじめて海を見る。そして、外交政策によって政略結婚をさせられるプリンセス・アミとの出会いと別れによって、ロコは人が皆自由ではないことを知る。うんたらかんたら16.3世とか面白かった。センスが魔術感ある。ドラゴンのくだりって本当ですか?
船の上で百合子と出会う。百合子の旅の目的は、自分探しの旅と言えば簡単だが、ちょっと難し目のアレコレを口にしている。
主観から脱するために、客観視の材料としてテキストを用いる。本になりたいと百合子は言う。偶然にもと言ってはアレだが、私も己を記述したい系の百合子を書いたことがあったので、少し近しいものを感じた。
柵の中で暮らす姉妹がいる。登場するのは妹だけだが、長い間を生きていて、良い子なんだけど、柵の外側から見れば生々しい現実に包括されていると言える。ここでも過去に何があったのかは具体的に示されないが、旅人という存在は基本的に余所者であり、全てを知ることはできず、推し量るしかないのだから、ロコの視座としては非常に納得できるものだった。
肉。多分タイトルがヒントになるのでは。肉。肉体。
静香と再会したとき、一人と一匹と言っておきながら立ち絵は静香だけなのだから、残りの一匹は、そう、霊的存在とか多分その辺ではなかろうか。静香のキャラが変わっているのがちょっと分からないので、ホラー系かしらとも思うが、美也が「疲れてしまった」みたいなことを言っているので、何かこう、不老不死的なものを領主に譲渡したのではないか。真相は作者のみぞ知る。
全編を通して、旅人ロコと出会う人々とのバックボーンの有無が目立っているように感じた。
ロコの足跡はそれほど多くない。そして旅はまだまだ続くのだろうが、ロコが出会う人々は皆一様に、すでに何らかの足跡があって、物語を持っている。
ロコは誰かと出会うと同時に、その人生と出会うのである。そして当然ながら、ロコという他者から見た誰かの人生は、どこかしらが秘匿されているのだ。
しかし、別れはどうだろうか。出会って、別れる、というのは旅の常であるが、ロコはその別れを決して忘れないだろうし、別れるたびに何かを学んでいく。
伊織と別れて寂しかったように、あずさと別れて一歩目を実感したように、亜美と別れて後悔したように、その足跡にはロコだけではない、様々な人生が横臥しているに違いないのだ。
何が言いたいやらよくわからない感じになってしまったが、素直な感想を言えば面白かったし、これは別に批評でもないので、読み終えてそれはもうとても満足だったことを表明するとともに、最後にカッコつけみたいなことをやって文章を締めたいと思う。
宮崎県出身の旅人、若山牧水の短歌を、旅人ロコの素敵な足跡と前途に贈る。
『いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや』